现在の繁栄をもたらした有力な武器に科学*技术ということがある。本来、科学と技术は分けて考えるべきなのだが、日本では科学技术として一つのもののように考える人が多い。そのときの科学はヨーロッパ近代に起こった近代科学を手本として、研究者はものごとを客観的に、(1)、その対象と无関系な立场に立って研究し、そこに因果の法则を见いだす。それと技术が结びつくと、今日の工作机械のように、(注1)マニュアルに従ってボタンを押すと、机会が思うように操作され、望ましい结果が得られることになる。
これはすばらしいことだ。しかし、こらがあまりにもうまくいくので、日本の多くの人がどんなことにもマニュアルがあり、そのマニュアルどおりにやれば、何でもうまくいく、と思いこみすぎたのではなかろうか。そのためには上等の机械や、よい方法を手に入れる必要があるが、それらはお金で买うことができる。そして、やがてお金さえあれば何でも思いどおりになるー幸福になるーと考えるようになる。
(2)このことをはっきりと示す例として、子どもの不登校に悩んでいた父亲から、「科学が発达した今日、ボタンを上手に押せば人间は月まで行って帰ってこられるのに、息子を学校に行かせるボタンはないのですか」と迫られたことがある。科学技术は、操作する侧とされる侧が(3)ときにのみ有効である。父亲と息子という人间関系があるところでは、それは役立たない。
そのことを忘れて、现代人は他人を上手に操作して自分の思いどおりにすることができると错覚しているのではなかろうか。うまい育児法に従って自分の子どもを「よい子」に育てるとか、高齢者に対するよい「対策」を见つけて、面倒をなくするとか。そして、その结果、子どもや高齢者は、自分を「人间あつかい」してくれないと、なんとなく感じとって、よけいに悪い方向に向かうと思われる。
人间関系というと、话が急にかたくなる。亲子の対话をどうするのかなどという前に、家庭でも友人でも、とにかく「一绪に生きているんやで」とでも言いたいような感情の共有ということがあるのではなかろうか。そのような感情に支えられてこそ、人间は自分は生きていると感じられるのである。
このことを忘れて、何とか他人を「操作」したり「支配」したりして、自分の欲望をとげるのが幸福だと思う。そして、そのために必要と考えるお金やマニュアル探しに热心になっているうちに、先に述べたような(4)感情を共有する 态度が弱くなってしまう。
豊かな物に见合うだけの心のつながりを大切にすることに、もう少しエネルギーを使ってはどうだろう。(5)足もとにあるたくさんの果物のことを忘れ、高い木になっている果物を取り合いするために、(注2)われ胜ちに高く登ろうと(注3)いがみあっている群众。 日本人はこんな姿にならぬように、まず人と人とがつながって分け合う楽しみを见出してほしい。
「河川隼雄「日本人はいま幸福か」「読売新闻」2004年4月14日付夕刊」
(注1)マニュアル:分からない人のために使い方を说明したもの。手引き。
(注2)われ胜ちに:人に负けまいと、先を竞う様子。
(注3)いがみあう:人がお互いに敌意をもって争いあう。
好的,谢谢!