优れた作品を作りさえすれば、それらは易々と国外に进出するという楽観论は、芸术に国际性のみを认めて民族性のあることを见落したずさんな议论であつてまだ思考が浅いのである。
いま、日本の政治は何より映画の国际性を利用しようと焦つているのであるが、ここで特に为政者に深く考えてもらいたいことは芸术においては国际性というものはむしろ第二义の问题だということである。しからば芸术における第一义の问题は何か。他なし。芸术の第一义は実に民族性ということである。
诸君はハマモノという言叶を知つているであろう。いい换えれば横浜芸术である。民族に根ざし、民族に生れた芸术が、自己の民族に対する奉仕を忘れて国际性を第一义とし、输出を目的とした场合、それはたちまちハマモノに転落し国籍不明の混血児ができあがるのである。「新しき土」はその悲惨なる一例である。この种のものは芸术国日本の真価を伤つけこそすれ、决して真の意味の政治に役立つはずはないと私は今にして确信する。
くり返していう。芸术は何よりもまずその民族のものである。したがつて自己の所属する民族に奉仕する以外には何ごとも考える必要はない。いな、むしろ考えてはならぬのである。自己の民族への奉仕をまつとうし、民族芸术としての责务をはたしたうえ、さらに余力をもつて国境を越えて行くなら、それはよろこばしいことであるが、最初から他の民族への迎合を考えて右顾左眄し始めたらそれはすでに芸术の自杀である。
およそ民族にはそれぞれ异なる事情がある。アメリカにはアメリカの事情があり、我々には我々の事情がある。彼の民族の垣は低く、我が民族の垣は高いのである。
垣とはすなわち风俗、习惯、言语の隔てを意味する。
我がたたみに坐し、彼が椅子に倚るのは风俗习惯の差であつて、それがただちに文化の高低を意味するものではない。
かつて安田靱彦は黄瀬川の阵に相会する頼朝义経の像を画いて三代美术の精粋をうたわれたが、殊に図中頼朝の坐像の美しさは比类がない。また、室町期以降の多くの武将の坐像、あるいは后醍醐天皇の坐像の安定した美しさなど、所诠椅子に腰挂けている人种のうかがい知るべきものではないが、私はこれらの美を解し得ない彼らにむしろ〔#「むしろ」は底本では「むろし」〕同情を禁じ得ない。
我々の感じる美、我々を刺戟する芸术的感兴は、常にあるがままなる民族の生活、その风俗习惯の中にこそあるのである。
他民族がもしも我々の映画の中に畳の上の生活を见て丑いというならば见てもらわぬまでである。他民族の意を迎えるために我々の风俗习惯を歪曲した映画を作るがごときことは良心ある芸术家の堪え得べきことではない。
もちろん现在我々の映画はその表现において、技术において、残念ながら世界一流の域には远くおよばないものがある。我々は一日たりともそのおよばざるところを追求する努力をおこたつてはならないが、しかしたとえ我々の映画が一流の域に达した暁においても、我々の特殊な风俗・习惯・言语の垣根は决して低くはならないことを铭记すべきである。そしてそのときにあたつて我々映画の进出をはばむ理由が一にかかつてこれらの垣根にあることが明らかにされたならば、もはやそれは天意である。我々はもつて瞑すべきであろう。