穏おだやかさとは対照たいしょう的てきな、もう一ひとつの过酷かこくな自然しぜんは、その厳きびしさの中なかにも美うつくしさがある。私わたしは静しずまり返かえった山やまが好すきだが、风かぜが吹ふき、吹雪ふぶきで荒あれ狂くるう山やまも好すきだ。そうした中なかで、ちっぽけ な人间にんげんが、ちっぽけな私わたしが、精せいいっぱい努力どりょくし、登山とざんを成なし遂とげる 。人间にんげんの歴史れきしから见みればどうでもいいことであり、はたから见みても、ばかばかしい 行为こういかもしれないが、自然しぜんが过酷かこくであればあるほど、それを克服こくふくしたときの私わたしの喜よろこびは大おおきなものとなっていく。
人间にんげんというのは、ともすれば安易あんいな方向ほうこうに流ながされていってしまうものである。穏おだやかな环境かんきょうの下したで花见はなみをし、自然しぜんを満喫まんきつ し、自分じぶんの都合つごうで自然しぜんを賛美さんびする。雨あめが降ふり、风かぜが吹ふき、雪ゆきが降ふり、あるいは逆ぎゃくに日ひが照てり辉かがやきすぎるのを嫌きらうが、そうした自然しぜんの営いとなみの中なかで、植物しょくぶつも动物どうぶつも他たの様々さまざまな生なま物ぶつも健すこやか に育そだっていく。だが、人间にんげんだけは、そうした自然しぜんの営いとなみの中なかで自分じぶんに快适かいてきなことだけを、よしとしている。自みずから精神せいしん的てきにも肉体にくたい的てきにも自じ然しかに适応てきおう できなくしている。それが悪わるいと言いっているのではない。たまたま、私わたしの脳のうの中なかにインプットされた远とおい昔むかしの野性やせいの部分ぶぶんが、いかなる自然しぜんの営いとなみもごく自然しぜんに受うけ入いれられるようにできていたのであろう。